バーチャル・セル・チャレンジの目的
現代の生物医学研究は、動物モデルや培養細胞などの前臨床系に依存することが多く、そこでのアッセイで測定された反応がヒト患者における反応を近似するものであるという暗黙の前提に基づいています。しかし実際には、この前提が成り立たないことが多々あります。このようなトランスレーショナル・ギャップ(基礎研究から臨床応用への移行における乖離)は、臨床試験に進んだ薬剤候補の多くが最終的に成功に至らない主因の一つとなっています。
現在では、培養細胞に摂動(人為的な変化)を加え、大規模な摂動データセットを生成することが可能になっています。しかし、ヒトの生物学的理解において最も重要な細胞コンテキストの多くは、依然として直接的な摂動を加えることが困難、あるいは不可能であり、トランスレーショナル・ギャップを解消するには至りません。
バーチャル・セル・チャレンジ(Virtual Cell Challenge:以下、VCC)は、このトランスレーショナルな課題を測定可能なものにすることを目的としています。バーチャル細胞の価値は、すでに低コストかつ直接的に実施可能な実験を再現できるかどうかだけで判断されるべきではありません。真の価値は、実行可能な実験データを利用して、新たな実験の実施が困難、高コスト、あるいは不可能な生物学的コンテクキトにおいて、より精度の高い予測を行えるようになる点にあります。ここでの「成功」とは、ヒトの反応を完全に再現することではありません。最先端の前臨床実験モデル単独による予測と比較して、バーチャル・セルによる予測が、ヒトの反応により近いものとなることこそが成功と言えます。
優れたバーチャル・セル・モデルは、膨大な遺伝子摂動とそれに続く遺伝子発現プロファイリングを、in silico (コンピュータ上)で実行可能にするはずです。これにより、異なるコンテキスト間で同様の摂動プロファイリング・アッセイを繰り返す必要性が低減されるだけでなく、実験的には実施不可能な規模で、摂動、細胞状態、およびそれらの組み合わせを探索することが可能になります [Figure 1引用下図 A 参照(クリックすると拡大表示されます)]。
2025年(第1回)VCCの成果と課題
VCC2025は、H1ヒト胚性幹細胞を対象として、チャレンジ専用の学習データから単一遺伝子摂動を予測するという設定でした。114カ国から5,000人以上が登録し、1,200チーム以上がモデルを提出し、最終提出チームは300チーム以上を超える大きな反響を得、最も優れたモデルは、摂動の識別や差次的発現遺伝子の予測といった重要な能力において改善を示しました。しかし同時に、現在のモデルは、すべての評価基準において実験による測定結果を一貫して代替できるレベルには達していないことも浮き彫りになりました。
VCC2025は、「共通の課題・高品質なベンチマークデータセット・評価の枠組み」というチャレンジのフレームワークを確立しコミュニティーを醸成するという成果を上げました。一方で、指標の設計、生物学的な汎化、統計的手法とディープラーニング手法の統合、そして単一のリーダーボード スコアの最適化に偏らない実際の生物学的利用を反映した形の評価の必要性など、この分野が成熟すべき点が浮き彫りになりました。
「適応」から「汎化」へと、バーチャル・セルの初心へ回帰
2025年の課題は、「単一のコンテキスト(H1ヒト胚性幹細胞)においてチャレンジ専用の学習データを与えられた上で摂動の結果予測」でした。すなわち「測定済みのコンテキスト内で最適なモデル」を評価したに過ぎず、モデルがそのコンテキストに特化した学習例に依存して「好成績」を上げたのか、それともバーチャル・セルが目指している汎用的な生物学的知識を獲得したのかを判別できませんでした。
バーチャル・セルの本来の目的である「実験が困難・不可能なコンテキストへの外挿」性能を測るには、そのコンテキストに対応する摂動-応答の学習データを意図的に与えないという(すなわち、ゼロショット予測という)、より厳しいテストが必要であることが、明らかになったのです。
そこで、VCC2026では、モデルへの入力は非標的ガイドの発現プロファイル(=細胞株の基底状態)とノックダウン対象の遺伝子IDのみに限定され、摂動後の実測値は完全に隠されます。出典ではこれを指して、「成功するモデルには、チャレンジそのものから対応する「摂動と応答」の学習データを与えられなくても、ある文脈における摂動への応答が別の文脈へとどのように波及するかを推論する能力が求められます。」と記述されています。
[注] 右図はVirtual Cell Challenge 2026のWebサイト冒頭のスクリーンショット(クリックすると拡大表示されます)
VCC2025からの教訓を踏まえ、VCC2026は、マルチコンテキスト(多種多様な細胞環境)への汎化とゼロショット予測に焦点を当てます。
2025年のチャレンジとは異なり、前述のように、チャレンジ専用の学習用データセットは提供されません。参加者は適切なデータやモデリング戦略を自由に用いることができますが、チャレンジ自体では、特定の細胞コンテキストにおける摂動応答の対応データが存在しない状況でも、モデルがその新しい細胞コンテキストに対して汎化できるかどうかが試されます。
2025年のチャレンジとは異なり、前述のように、チャレンジ専用の学習用データセットは提供されません。参加者は適切なデータやモデリング戦略を自由に用いることができますが、チャレンジ自体では、特定の細胞コンテキストにおける摂動応答の対応データが存在しない状況でも、モデルがその新しい細胞コンテキストに対して汎化できるかどうかが試されます。
チャレンジに向けてArc Instituteは、CRISPR干渉(CRISPRi)と10x FlexシングルセルRNAシーケンス(scRNA-seq)を用い、異なる組織由来の6種類の細胞株に対してPerturb-seq実験を実施しました。チャレンジ開始時に、参加者はこれら6種類の細胞株のうち3種類に関する検証用入力データを受け取ります。各細胞株について、非標的(non-targeting)ガイドを発現する細胞のプロファイルと、予測対象となるCRISPRiノックダウンの遺伝子識別子が公開されます。モデルはこれらの入力を用いて、CRISPRiノックダウンおよびそれに続く10x Flexシングルセルプロファイリングによって測定される、摂動後の発現プロファイルを予測することを求められます。
こうして、VCC2026では標的となるコンテキスト(細胞株)の情報と、そのコンテキストにおける摂動の結果に関する情報を意図的に分離しています。非標的ガイドのプロファイルは各細胞株の基礎状態を定義し、摂動の識別情報はシミュレーション対象となる介入を定義します。そして、公開されない測定データが「正解(グラウンドトゥルース)」となります。
このような設定において、優れたモデルとは、チャレンジ内で提供される「摂動とそれに対する応答」の対応データ(学習用データ)を直接与えられることなく、あるコンテキストでの摂動応答が別のコンテキストへどのように転移するかを推論する「ゼロショット予測」を実現できるものになります。
VCC2026における評価
第1回のVCC2025と同様に「Cell-Eval」[#]の指標を利用しますが、VCC2025において、他の研究事例と同様に、単一の指標だけではモデルの品質を完全には捉えられないことが示されました。
今年度の最終スコアリングでは、6つの指標を統合し、基準値で正規化し集約したスコア(aggregate scoring)が使用されます [先のFigure 1引用図の D 参照] 。これにより、特定の単一指標への最適化を促すインセンティブを抑えつつ、モデルの挙動を包括的に評価することが可能になります。
今年度の最終スコアリングでは、6つの指標を統合し、基準値で正規化し集約したスコア(aggregate scoring)が使用されます [先のFigure 1引用図の D 参照] 。これにより、特定の単一指標への最適化を促すインセンティブを抑えつつ、モデルの挙動を包括的に評価することが可能になります。
[#] "Predicting cellular responses to perturbation across diverse contexts with State" Adduri AK ∙ Gautam D ∙ Bevilacqua B ∙ Naghipourfar M ∙ Imran A ∙ Shah R ∙ Teyssier N ∙ Verma R ∙ Carpenter C ∙ Eraslan B ∙ Chalissery F ∙ Ilango R [..] Roohani YH. Cell 2026-08-31. https://doi.org/10.1016/j.cell.2026.07.052
出 典
"Virtual Cell Challenge 2026: Benchmarking zero-shot generalization across cellular contexts" Arc Virtual Cell Initiative Team ∙ Hani Goodarzi(1,2) Cell 2026-09-17. https://doi.org/10.1016/j.cell.2026.08.004
- Arc Institute, Palo Alto, CA, United States of America
- University of California, San Francisco, San Francisco, CA, United States of America


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